幸福論remix サブカルチャーの歴史

宮台真司bot

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【サブカル サブカルチャーの歴史】
  • 古くは、正義 が悪を懲らしめるというものがある。明治時代から1964年頃までこうしたタイプの作品ばかりだった。「理想の秩序」があって、それを守る主人公が偉いという図式だ。
    『13歳からの大学授業 未来コンパス』
  • 日本では1950年代から60年代にかけて「大きな社会の中で翻弄される小さな個人」というモチーフが、マンガでも映画でも反復されました。
    『サブカル「真」論』
  • サブカルチャーに刻印された不安を見ると非常に面白い。東京オリンピックの頃から出てくるいわゆる「呪い」モチーフは、「自分たちが今住んでいる場所が元々どういう場所だったのかわからない」という不安と結びついています。
    『人格障害のカルテ 理論編』
  • 60年代サブカルチャーをなぜ熱く感じるのか。祭りだからだ。60年代には共通前提があり、共同身体性があり、我々意識があり、それゆえ祭りがあり得た。60年代には「世代の祭り」を可能にする共同身体性があった。
    『「世界」はそもそも…』
  • 60年代的カウンターカルチャーの挫折は、少年マンガでは反〈世間〉的な文脈の脱落に伴うドラマツルギーへの純化として現れる。〈世間〉から疎外されつつ〈課題達成〉に命を燃やすのでなく、単に「より強いライバルの出現と打倒」に純化されている
    http://is.gd/eaD2D
  • 70年代初頭はフォークソングに代表される自作自演ブームです。これは「商業主義/反商業主義」というカウンターカルチャー的な二項対立が、社会的文脈の変化に対応して「大量生産/自作自演」二項対立に変換されたものです。
    『サブカル「真」論』
  • 60年代は「ここではないどこか」を現実世界に実現しようとした「政治の時代」。70年代は「ここではないどこか」を観念世界へと退却させる「アングラの時代」。それが、70年代末から「パロディの時代」になります。
    『ネット社会の未来像』
  • 70年代、メディア上での「性の解放」の氾濫に困惑しアノミーに陥った少女たちが繭籠りのツールとして「かわいい」を利用したのが、「乙女ちっく」でありイラストポエムや交換日記です。
    『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』
  • 「かわいい」の歴史をお話ししたのは、「日本的なサブカルチャー」の流れの、最初期の段階に、「乙女ちっく」的な「かわいい」があることを述べたかったからです。
    『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』
  • 「かわいい」という観念の登場は大体63年から64年にかけてなんですよ。それまでの「美しい」から急速にかわるんです。「かわいい」の使われかたを綿密に見てみると、「誰からも好かれる」って意味なんですよ。
    『われらの時代に』
  • 変化の最初の表れは、意外にも恐怖コミックに見出された。新興住宅地の開発のかげで忘れられた共同体の記憶(白蛇!)が、失われた個人の記憶(前世!ポルターガイスト!)に置き換えられたのだ。
    『増補 サブカルチャー神話解体』
  • プログレが最高だと言ってたスノッブたちが、1976年にイーグルスの「ホテルカリフォルニア」でロックの終焉を宣告されたあと、歌謡曲にシフトして「わかる奴にしかわからない」ネタ的コミュニケーションを始めた。
    『思想地図〈vol.3〉』
  • 団塊世代後期「プログレ野郎のキャンディーズ賛歌」的なものから、団塊世代以降~新人類世代「わかるやつにはわかる」的ものへの変化。これを少年漫画で象徴するのが、『がきデカ』から『マカロニほうれん荘』への変化です。
    『サブカル「真」論』
  • 『ガンダム』の世界には、昔の日本みたいに「愛」と「共同体」があった。今はそれがなくなってしまったんだ。
    『中学生からの愛の授業』
  • 女子は70年代から80年代を通じて少女マンガでたくさん人間関係のシミュレーションをしてきたのに、男子は敵が現われる、倒す、もっと強い敵が現われる、倒す『少年ジャンプ』。そんなものは現実を生きるのに何の役にも立たない。
    『透明な存在の不透明な悪意』
  • 80年代は単に豊かだったんじゃなく、それまで貧しかったということが重要だったわけです。つまり、落差が生み出した幻想です。
    『サブカル「真」論』
  • 以前はジャンルに意味がありました。92年までは、日本の音楽は「歌謡曲/ニューミュージック/和製ポップス/和製ロック」の四つに明確に分けられ、人格類型によってどのジャンルを享受するのかが明確でした。
    『サブカル「真」論』
  • 映画や音楽は島宇宙内の内輪的コミュニケーションとしてしか流通しなくなりました。こうした変化を、映画や音楽や文書のアー力イブス化が促進しています。
    『計算不可能性を設計する』
  • 80年代~90年代初頭、性的なフィールドの負け犬が「オタクの階級闘争」での上昇を目指すという振る舞いがありました。現実社会で上昇できないやつが教団内での上昇を目指すという宗教的な「地位代替機能」と同じです。
    『サブカル「真」論』
  • 同じハルマゲドンの扱いでも『ヤマト』から『幻魔大戦』までは「ハルマゲドン」そのものが描かれるが、80年代半ば以降の『北斗の拳』『ナウシカ』『AKIRA』になると「ハルマゲドン_後_の共同性」が重要なモチーフになる。
    『終わりなき日常を生きろ』
  • 「ハルマゲドン」は、理想の社会を構築するためではなく、理想の自己を構築するために目指されたのです。社会の全体が、自己のホメオスタシスという主観的な観点からだけ思考された、その意味で、オウム真理教こそ「元祖セカイ系」でした。
    http://is.gd/d7MKQ
  • 92年頃に分水嶺がある。若い連中が「ずれ」なくなったんです。世代でいうと77年生まれ以降「ポスト団塊ジュニア世代」。この世代からアウラが消え、五年ほど経つと東浩紀さんのいう「データベース的消費」が出てきます。
    『ネット社会の未来像』
  • 工ロ業界で「サブカル系」が差別語になったのは92年だと思います。差別語としての「サブカル系」とは、実は「自意識系」の別名なのね。サブカル趣味が、ある種の痛々しさの自己表明みたいに受け取られていたんです 。
    『サブカル「真」論』
  • 工口雑誌の世界では92年に「字モノ」から「絵モノ」へのシフトが起りました。従来の工口雑誌は、本体はあくまで文章で、イラストや写真は文章の説明(挿し絵)でした。それが逆転し、文章はキャプションへと降格しました
    http://is.gd/d7MKQ
  • 1992年を境にして、「現実」から一挙に重みが消えはじめたのです。そうして、重みが完全に消えたのが1996年です。
    http://is.gd/dhkKq
  • この15年間に、日本のサブカルチャーには大きな変化がいくつかありました。とりわけ、1996年の変化と、2001年の変化を、見過ごすわけにはいきません。
    http://is.gd/d7MKQ
  • 96年以前が「〈自己〉の時代・前期」で、「虚構」が「現実」に劣るという観念が維持される時代です。96年以後が「〈自己〉の時代・後期」で、自己のホメオスタシスにとって「虚構」が「現実」と等価な素材として享受される時代です。
    http://is.gd/d7MKQ
  • 「現実の虚構化」ゲームは、性愛コミュニケーションが前提でしたから、当然不得意な人も出てきて、現実を演出するより、現実と無縁な異世界を現実がわりに生きるようになります。オタクたちの「虚構の現実化」です。
    http://is.gd/d7Cs8
  • 自己のホメオスタシスに役立つならば「現実」であろうが「虚構」であろうが、何でも利用するようになりました。だから「虚構の時代」と呼ばれるのです。
    http://is.gd/d7MKQ (自己のホメオスタシス=自己防衛、自分のありようの正当化。今の自分でいいのさコジツケ)
  • 1995年の「オウム真理教の失敗」と入れ替りに、1995年秋にテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』によって、「セカイ系」の時代が始まったのです。
    http://is.gd/d7MKQ
  • 全面フラット化後、96・97年から、「虚構の現実化」を行なう島宇宙の内部に、フラクタルのように再度「虚構の現実化(セカイ系)/現実の虚構化(バトルロワイヤル系)」という差異がコピーされたわけです。
    『日本的想像力の未来』
  • 年長世代と年少世代の落差だね。たとえば『エヴァンゲリオン』を「引用の嵐だ」というふうに読む年長世代の読みかたと、碇シンジくんの自意識をめぐる物語として読む年少世代の読みかたの落差です。
    『波状言論S改』
  • AC(アダルトチルドレン)も、碇シンジも、ひきこもりも、僕らの世代から見ると、年少世代のマジネタだったのが、二年経たずにコミュニケーション・ツールになった。
    『波状言論S改』
  • 「セカイ系」とは、「自分の謎」の解決が「セカイの謎」の解決に直結するような意味論の形式を持った、『新世紀エヴァンゲリオン』を出発点とする作品群(またはそれら作品群の意味論)のことです。 http://is.gd/d7MKQ
  • 「俺はダメな奴だ」という自意識の人は、何か問題が生じた場合、外部(社会)でなく内部(自分)に帰責するので、社会問題に関する異議申し立てが抑止されます 。
    『格差社会という不幸』
  • 「俺はダメな奴だ」という自意識の人は、物事がうまくいかないとき「自分がダメだから失敗した」と帰責しがち。これが「自分がダメでなくなれば、すべてうまくいく」と反転すると、セカイ系サブカルチャーが成立する。
    『格差社会という不幸』
  • 日本的なサブカルチャーによる社会的文脈の無関連化が進んで全面フラット化が完了してしまうと、日本的なサブカルチャー自体が途端に価値を失い、進化の袋小路のような細分化ないし自己差異化に向かうという可能性。
    『日本的想像力の未来』
  • 10年くらい幅がありますけれども、おたく化、匿名メディア化、ストリート化という順番で〈第四空間化〉が展開して、〈学校化〉の中で居場所を喪失した子たちが、居場所を獲得するようになりました。
    『人格障害のカルテ 理論編』
  • 「かわいい」という概念の取り込みで「性」が関係性から記号へと変じ、入替可能な「何でもあり」になった。こうした「何でもあり」を背景にして、90年代のブルセラや援交が出てくる。
    『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』
  • 90年代後半、当ゼミの男子院生6割超がギャルゲーマニアと判明。「現実の女の子と付き合えないのではなく、ゲームよりも実りがないから付き合わない」「現実の子は薄い。ゲームの子は現実の子より感情豊かでコミュニケーション能力がある」
    http://is.gd/d7xCF
  • 「かわいい」コミュニケーションによる社会的文脈の無関連化こそは、「現実の虚構化」の出発点でした。
    『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』
  • 1999年を境に、「現実」は「虚構」よりも重いという感覚が急減して、「オタクの救済」が進みました。
    http://is.gd/dhkKV
  • 巷間「現実と虚構の区別がつかない若者」という物言いが流布し、原因としてメディアの悪影響が沙汰されました。データ的には出鱈目です。正確には「現実と虚構の区別はつくが、取り立てて現実を尊重しなければいけない理由を見出せない」。
    http://is.gd/d7zeP
  • 以前は「現実」がもっと生々しく体験されていました。それが90年代半ばから生々しくなくなって、「虚構の現実化」と「現実の虚構化」との区別が意味を持たなくなります。現象としては「オタク差別の衰退」「オタクのオーバーグラウンド化」です。
    http://is.gd/d7Cs8
  • 「オタク差別の消滅」「オタクの公認化」「総オタク化」。オタクから、コミュニケーションを楽しむ存在である「半オタク」へ、の動き(「メイド喫茶」や『電車男』のブーム)が進んだ結果、秋葉原はかつての異様さを失い、観光地化しました。
    http://is.gd/d7MKQ
  • 日本のサブカルは最近急に脱自意識化してきた。宇多田ヒカルが「本当の自分が表れてるのはどの曲か」と聞かれて「エンターテイナーは客が欲しいものを出すのが仕事で、本当の自分なんか出すわけねえよ」ってキレてた
    『M2われらの時代に』
  • オリンピックの64年、石油ショックの73年、性と舞台装置急上昇の77年、アングラ消滅83年、DCブランド田吾作化88年、就職冬の時代の92年、同時多発テロの01年。常に、サブカル史上の大きな転換点があります。
    『サブカル「真」論』
  • 『続・サブカルチャー神話解体』は今後も上梓する予定はありません。資料の山だけが残ってしまった。決定的理由は、若者たちから社会的文脈の変遷についての歴史的認識が消え、副次的理由は、分類関心が消えたことです。
    『サブカル「真」論』

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